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初詣
2009 / 01 / 02 ( Fri )
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

大晦日、娘たち家族とテレビで紅白を見、また、ベートーベンの第九を見聞き、合唱団の中にイタリア語講座の友達を見つけ、高揚した気持ちで、小曽根真さんのガーシュインのラプソディー・イン・ブルーを見聞き、それは午前0時にぴたり弾き終わり2008年のとどめ、新年を迎えました。

皆で高幡不動尊に初詣。大変な人出で本堂前は満員ぎゅう詰め電車状態。
沢山の警備員の方々の誘導で無事参拝致しました。
境内には沢山の露店が並び飲食露店も賑わっていました。
お不動さんから駅までの飲食店も終夜営業、カッフェで休み、午前4時帰宅。また乾杯。

メタボぎりぎりの私には危険な日々が続きます。
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サンマルコ広場でサーフィン!
2008 / 12 / 06 ( Sat )
http://magazine.libero.it/videotormento/crazy/fare-surf-a-venezia-ne9085.phtml

ヴェネツィアの友人から、何とアクアアルタのサンマルコ広場と運河をサーフボードで走ってる人の映像を送ってきました。
無法、無謀なる青年! しかしご当人は爽快だったでしょうね。
オランダのサーファー,”これが夢だった”と言っています。
興味ある方は上のアドレスで見てください。

2000年11月21日、サルーテ教会のお祭りの日の朝5時40分、突然サイレンが鳴り響き、飛び起きました。
8時過ぎ、アパートの窓から見える路地は浸水していないものの、他所に繋がる総ての道が水浸しで長靴なしでは通行不可。
私のアクアアルタ初体験でした。

11時頃散歩に出ると水は引いていて、店々は掃除の真っ最中。
店の床上4、50センチのところまで水浸しだった跡が見え、ヴェネツィア生活の困難さがうかがえました。
この日のアクアアルタ、満潮時は110センチ。

その日の夕方、ジーリオ広場からサルーテ教会へと、大運河を渡る仮橋は沢山の参拝者で賑わっていました。

数年前に、モーゼ計画なるアクアアルタを防御する水門を造る工事が始まりました。
問題点も多々あるようで、反対署名を集めている人達も居るようです。

何としても、ヴェネツィアが永遠に都でありますように、願っています。
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謡わないで!
2007 / 02 / 24 ( Sat )
昨日は、御茶ノ水の病院からイタリア語講座に出席し、そして観世能樂堂にと、行くつもりでしたが、病院でことのほか長時間かかり、イタリア語に間に合わず、病院から能楽堂に急ぎました。

能「藤戸」
シテ 松本尚之 ワキ 殿田謙吉 間 大蔵吉次郎
地頭 観世恭秀

前場、息子を殺された母(シテ)の声、美しい声でした。
静かに出、悲しみの様子、そして殺したワキに激して詰め寄り、また静かに中入り。
後場のシテ、殺された漁夫の亡霊に、見入り、聞き入りました。
終盤、杖を持っての舞、素晴らしく、この部は私の母が亡くなった直ぐ後、姉が舞囃子を舞った曲であり、こもごも思いが沸いてきて、と、聞き入る謡に、がさがさした変なな声が重なって…何?

1人の婦人が謡っていました。謡本を見て。前から2列目で。
信じられません!
離れているので、注意できず、耐えるしかありませんでしたが、不快で、残念でした。舞に集中しようとしたのですが…
もしこんな人がいたら、近くの方、お願いです、すぐに注意してください。
その人は「藤戸」が終わると、次の狂言、後の能は見ずに、出て行きました。

狂言「柑子」(こうじ) 
大蔵弥太郎 大蔵基誠

主人から預かった、頂き物の、珍しく1本の枝に3つ成ったみかんを食べてしまった太郎冠者、主人に返せと言われ、あれこれ言い訳をします。

1つは枝から落ち転がって門を出ようとしたので「柑子門を出でず」で皮を剥いて食べました。
転がってはいかんと懐に入れたら、刀の鍔で1つ潰れたので、そのままパクッ。
3つ目は俊寛の流刑仲間2人は許され迎えの船に乗ったのに、俊寛只1人取り残され…(みかん1つ残るは哀れ、とは言葉にしませんでしたが)食べちゃった。と。

太郎冠者の主人との掛け合い、間合いの面白さを私には説明出来ませんが、狂言、面白いです。
狂言で席立つ人々、もったいない、ですよ。

「お供を致いて…」「取りい出いて…」 致して。出して。
大蔵家では「し」を「い」と発音するんですね。

能「岩船」
シテ 金子房聡哉 ワキ 村瀬提 地頭 藤波重彦

観世流だけが、江戸中期以降、半能だそうだ。
(前場無し、後場だけ演じる)
初めにワキ、ワキツレ2人が出て来て、詞と同吟がありましたが、かなりの年配と見えるワキツレの1人の方の声がはずれ、がっかり、如何かと思いました。

シテの出。煌びやかな輝く衣装で、頭には龍の冠の龍神が、
颯爽と舞って、お終い。
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お吉さんは3日だけ
2007 / 02 / 21 ( Wed )
17日謡仲間6人と下田、爪木崎に行って来ました。
下田駅前で昼食をとり、唯一の男性84歳のおじさまの希望により、タクシーで「玉泉寺」へ。

玉泉寺は1856年にハリスが日本に初めて米国総領事館を開いたお寺。
しかし、行ってみると、市街から離れ、そして境内は広くなく、小さなお寺で、なぜここを領事館にしたのか、不可解。
はたして、領事館の場所をどこにするか、日米で激しい攻防があったそう。
市街に置きたいと主張するアメリカ。
ハリスが来日する2年前に日米和親条約締結により、下田が開港され、玉泉寺はアメリカ人の休息所になり、埋葬所にもなっており、また住職は住んでいなかったこの玉泉寺を領事館にしたい日本側。

庭の隅の河津桜が満開でした。
境内にある、ハリス記念館に入る。
案内役の方が30分後に迎えに来るよう宿に電話をしてくれて、流れる如く名調子で説明をし、さっと次の部屋へ、次の部屋へと引率される。

この寺にオランダ人通訳と中国人召使と共に住んでいるハリスの所に、芸者お吉さんが、莫大な支度金と4ヶ月分の超高給料をもらって通い始めたが、3日目にはもう来なくて良いと言われ、お勤めは終わりと成った、とは、知らなんだ。
お吉さん17歳の時。
お吉さんは、月日たって、再度ハリスのもとで働きたいたいと願い出たが、ハリスは断ったそうである。

タウンゼント・ハリスは1846年はニューヨーク市教育局長であった。
1847年にフリーアカデミー創設(現ニューヨーク市立大学)。

1856年7月米国総領事として下田に着任。
1859年5月領事館を江戸、麻布の禅福寺に移す。
1862年アメリカに帰国。

ハリスは、下田で役人以外とは交流の無い孤独な生活だったらしいが、だからといって、お吉さんの様な相手を望む人ではなかった…のかな?

寺の庭には牛乳の碑、と屠牛木の碑があった。
当時の日本には牛乳を飲む習慣が無かったので、牛乳を集めるのに大変な苦労があったそうな。
子牛が飲んだ後絞って、1頭からほんの少しづつの牛乳を集めて回り…大変高いものになったという。
屠殺も、この庭で日本で初めて行われたそうだ。
曹洞宗のこのお寺の境内で牛屠殺が行われたとは、今聞いても衝撃。

宿の迎えの車が来た。
案内説明してくださったお寺の方が、門前まで出て丁寧に見送ってくださった。
庭に建つハリス記念碑の裏面に渋沢栄一氏の碑文があり、引き込まれたが、途中までしか読めなかった。
いつか最後まで読みに来よう。

3月27日、最後は乞食となり川に身投げして死んだお吉さんの命日に下田で供養祭が行われています。
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初謡会
2007 / 01 / 21 ( Sun )
昨日、横浜で入っている謡の会の初会に行って来ました。
3日前に、「東北」のシテをする予定だった方が、出席出来なくなったので、代わりに謡うよう、会長さんから電話がありました。

自分では選ばない曲だ、などと思いつ、久~~~しぶりに本を出し、謡ってみると、面白い!     
謡会は12時開始。
「鶴亀」 格調高いシテさんの声で始まりました。
謡う機会の多い曲で、暗記している方が多いので、テンポ、ノリ良く、力強く、煌びやかに、あっと言う間に終わりました。

「東北」 ワキさんも女性。私と同い年だけど、40年以上お稽古している、深い方。
のどかに落ち着いた謡出し。さすがにいい雰囲気でした。
そのワキに、のォオ~ と声を掛けて、私の出番。
全員が、シテ、ワキ役の後ろに座って地謡を謡い、私の前には誰もいないのですが、地を謡ってる時と違って、引き締まりました。
シテ謡や詞の息継ぎの時の、しーんとして…

最後に「邯鄲」
ワキ役は、珍しくワキ方役者さんに習ったという、いつも強声の方。
品格のシテさん、ワキツレさん。「鶴亀」と同じく、全員男性が役。
聞いていて、やっぱり男性の声だけがいいなあ、と思ってしまいました。

2時前には終了。
和食レストランの車が迎えに来、20名、新年会会場に移動。

20名の内、友人知人は5名、ほとんどの方と親しく話すのは初めて。
料理はちょびっと、ちょびっとずつ美しく盛られて出てくる間に、前や横の方々から、ビールや熱燗をどんどん注がれた。
呑み助と思われたのか?
能との縁、稽古の歴史や家族の事、能楽師の方々の事等々、回りの方々の話を聞き話し、わいわいと盛り上がりの内、お開き。

駅まで送迎車で送ってもらったが、友人が「新年だから蕎麦屋に挨拶に行こう」と、どんどん歩いて行く。4人で蕎麦屋にご挨拶。
熱燗、枝豆、蒲鉾、漬物。最後に食べれないっ、ていうのに、誰かがそば頼む。半分頑張って食べました。

しかし、この仲間、本当に謡、好きなんですね、皆酒に強しですが、お酒が入って、ますますの能談義。能役者さんの物まねも出ましたよ。
最後に下平克弘さんの舞台等についての話が出て、ファンである私は嬉しかったですね。
去年12月に演ぜられた「斑女」の姿を思い出していました。                         
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メディチ家、フェルディナンドの陰謀
2007 / 01 / 17 ( Wed )
友人がイタリアから送ってくれた新聞、イル・ジョルナーレ紙(2006.12.24)の記事,「メディチ家のミステリー」がとても興味深いので、稚訳ですが載せてみます。

メディチ家のブラックリストの最も陰謀に満ちた章が書き改められる必要がある。
フランチェスコ一世とその2番目の妻、ビアンカ・カペッロがポッジョ・ア・カイアーノのメディチ荘で、1587年に死亡したのは、マラリアによるものではなく、砒素を多量に盛られた為であった。

420年前から、公式の正史=2人ともマラリア感染により11時間前後の間に死亡した=というのは事実ではないのでは、という疑いは、数多くの文学や、葬り去ることのとても出来ない多くの伝説を生んできた。
この疑惑解明について、今、科学的結論に達した。
すなわち、毒殺、であったのだ。

「英国医学新聞」に、この調査ついての記事が載せられた。
紙上、筆者達、フランチェスコ・マーリ、エリザベッタ・ベルトル、アルド・ポレッティーニの法廷毒物学者達と、薬物史家ドナテッラ・リッピは、大公夫妻の死の物語を再構築した。
その物語はメディチ家の「フェルディナンド一世の権力への道筋」を明らかにしている。

あらゆる観点からして、2人の死は宮廷の陰謀であって、この物語、すなわち事件の中には、1人の被疑者と2人の犠牲者がおり、そして当然、なぜ殺したのか、殺されたのか、理由がある。

フランチェスコ一世は、最初の妻、ジョヴァンナ・ダウストリアから「跡継ぎー男子」を得なかった。
2人の間の唯一の公子、ドン・フィリッピーノは5才にならずして亡くなったのだ。
実は、男子は存在していた。ビアンカ・カペッロとの間の子、ドン・アントニオである。

ビアンカはは若いときから、ヴェネチア貴族の娘として知られていた。
1578年、第一夫人ジョヴァンナ・ダウストリアが死亡した。
フランチェスコ一世はビアンカと正式に結婚し、いち早く、新大公妃と唯一の世継ぎであるドン・アントニオを公式に認めることにした。

そうした事、総ては、フランチェスコ一世の弟、フェルディナンドには、気に入らなかった。
権力が自分の手からもがれていくのを恐れたのだ。

そして、メディチ家の王冠を得るための、あらゆる邪魔者を取り除く決意を持つに至った。

それから、大公夫妻は病に倒れ、11日後に亡くなった。

どの様に毒殺が行われたのか?
おそらく、決して明らかになる事はないであろう。
当時、死因追求をそらす方策が取られたにも拘わらず、世間の疑いはフェルディナンドに集中した。

フランチェスコ一世の遺体はフィレンツェに運ばれ、丁重に埋葬された。
一方、大公妃の遺体は、今では知るべくもない場所に放っておかれた。
2人の臓器は検死後、メディチ荘近くの、ボニスタッロの小さな教会に葬られた。
そして2005年5月、ドナテッラ・リッピが掘り起こし、そこに残っていた、乾ききって凝縮し、粉々になった3つの塊は、致死量の砒素を含んだ人体のものであることが明らかになった。

それだけでなく、3つの証拠物件は、人間の肝臓と2つの違った個体、すなわち、男女の物であることが解った。

男の固体から取り出されたDNAは、フランチェスコ一世の顎鬚に付いていた皮膚片;2年前の「メディチ・プロジェクト」、フィレンツェのメディチ礼拝堂での、一連の古病理学上の調査で採取された物。と限りなく酷似していた。

だから、科学者達は、ボニスタッロで見つかった証拠物件は、フランチェスコ一世であると考えた。

フランチェスコとビアンカの内臓がボニスタッロに一緒に埋葬され、見つかった女性の遺体臓器が、フランチェスコと同じく、致死量の砒素を含有していたことから、この女性が、ビアンカ大公妃であると考えるのは論理的である。
彼女も又、夫と共に、毒殺されたのである。
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メディチの墓調査、毒殺 つづき
2007 / 01 / 12 ( Fri )
今日から、イタリア語講座再開。
新年会続きで靄のかかった頭で、1ヶ月ぶりにイタリア語のクラスに出席。靄を忘れて、頑張ってまいりました。

さて、メディチ家の墓調査のつづき。

ビアンカとピエトロはフィレンツェのピエトロの親の家に逃げ込んで、結婚します。二人の間には、女の子が生まれたとか。
ビアンカは追われている身で、外出は出来ません。しばしば窓から外を眺める日々を過ごしておりました。

トスカーナ大公、コジモの息子、フランチェスコが馬に乗り、供を従え窓の下を通りかかり、窓のビアンカを見…通るたびに見上げ…
ビアンカはそれは美しかったという…
次期大公に見初められたビアンカは、ピエトロと彼の両親の大賛成の下、フランチェスコの愛人となります。18歳の時でした。
ビアンカ、ピエトロはこれでヴェネチアから追われる身から解放され、ピエトロ一族にも好機が訪れたという訳です。

当時は離婚が出来なかったので、結婚は出来ませんでした。
離婚が出来るようになったのは、イタリア政府が出来、しかも、1970年になってからのことです。

フランチェスコは数年後(4年?)オーストリアの王女と結婚します。

この時期にビアンカが住んでいた館が、ピッティ宮殿から西に、アルノ川と平行の道を進むと突き当たるマッジョ通り;ダンテがベアトリーチェを見初めたという、サンタ・トリニタ橋を南に渡って
ほんの少し直進した所に、残っています。
見事な模様が描かれたファサードはマッジョ通りで目だっています。
ピッティ宮殿のこんなに近くに住まわせる程ビアンカの存在は公だったのですね。

1572年、夫のピエトロが深い仲になった夫人の夫に殺されます。

暗黙のうちにフランチェスコとビアンカの仲を認めていた大公、コジモが、1574年亡くなり、33歳のフランチェスコがトスカーナ大公国の王、大公となります。

フランチェスコ大公の妹、イザベッラが夫に殺される。
大公正夫人に6人の子(内1人は男児、弱く、5才前に亡くなる)

ビアンカに男児、誕生。名前はドン・アントニオ。

1578年、正夫人は7人目の子身籠るが、教会階段から転倒、出血死。

フランチェスコ大公は正式にビアンカと結婚。
亡くなった前夫人の喪が明けてから、公表。

ヴェネチアはビアンカが駆け落ちした時の裁判記録を破棄し、「ヴェネチア共和国の息女」という栄誉ある、大公と結婚するにふさわしい地位を与えた。
ヴァネチア、ヨーロッパ各地の特使たち、カペッロの親等も列席してビアンカが大公妃となる、戴冠式が盛大に行われた。

1582年、天正の遺欧使節の4少年日本出発、1585年に3月イタリア,リボルノ到着。
トスカーナ大公国のピサに招待され、歓迎舞踏会で大公妃ビアンカと伊東マンショ踊る。

1587年10月、フランチェスコとビアンカは病の床に。
フランチェスコが亡くなって11時間後にビアンカも亡くなる。
マラリアで亡くなったと公表された。

死の直後から、すぐさま大公を継いだ、フランデチェスコ大公の弟フェルディナンド枢機卿によって毒殺されたとの、噂が広まる。

さて、今回の調査報告ニュースによると、教会に収められた、内臓と、墓の調査により、ビアンカの遺体もDNA鑑定で発見された。
そして、フランチェスコ大公とビアンカは、砒素によって、毒殺された、と解明された。

理由として、フェルディナンドが王位に就きたいが為、邪魔になる者を殺したとの意が記事に書いてある。

毒殺者、フェルディナンドの騎馬像がフィレンツェの捨て子養育院前広場にあります。

松田毅一著 「天正遺欧使節」に

「公妃ビアンカはただ者ではない。彼女は若くして情夫とヴェネチアから駆け落ちし、街頭でフランチェスコ一世に見初められ、まんまと公妃を追い出して大公妃の座を獲得した一世の妖婦であった。」と記されています。
いささか憎しみの感情が込められた書き方のように思えますが…
どうしてなのでしょうか?解る方、教えてください。
しかし、まんまと追い出しはせず、先公妃が亡くなった後、正式に結婚したのは、知られた史実らしいです。

塩野七生著「愛の年代記」には

「彼女の死後に決定的になった悪評では、大公をそそのかし、利己的な楽しみばかり追求して、トスカーナ大公国の財政状態を悪くした張本人にされてしまった。
しかし、こういう悪評の根拠となっているのは、生前からビアンカを憎み、大公の死後に僧籍を脱して俗界にもどり、大公位を継いだ元枢機卿のフェルディナンドの、巧妙な宣伝工作に踊らされた当時の世評である。

一方、後世の歴史家たちの評価は、ほぼ一致して良い。
大公妃時代のビアンカは、あまり政治が好きでない夫を助けて、良い忠告者となりながらも出しゃばらず、良き妻として、先王妃の残した子供達の養育にも熱心であった、とされている。」とある。
(フェルディナンドは妻も姦通の咎で殺したとか)

花の都、ルネッサンスの都フィレンツェは、今日も世界中からの人々で、賑わっている事でしょう。
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メディチ家、フランチェスコ一世は毒殺か?に決着
2007 / 01 / 07 ( Sun )
今日、ヴェネチアの友達から、イタリアの新聞「il Giornale」、2006年12月24日の記事の半面切り抜きが送ってきました。

メディチ家のミステリー、4世紀後の決着
(Il giallo dei Medici risolto dopo quattro secoli)と大見出し。

2004年8月に友達から「メディチ家の墓の調査がされる事になり、医者、病理学者ら専門家が組織された」と知らせを受けていた。

ヴェネチア貴族の生まれの、波乱の人生の中でメディチのトスカーナ大公フランチェスコ一世(1541~1587)に見初められ、ついには大公妃となった、ビアンカ・カペッロ。

ビアンカは日本人が初めて一緒に踊ったヨーロッパ人と聞いて、親しみを感じている。
1585年フランチェスコ大公は、天正の遣欧使節、4人の日本人少年を、トスカーナ大公国、ピサに招き、歓迎夜会の舞踏会では,伊東マンショが、ビアンカ・カペッロ大公妃と踊ったのだという。
マンショは、戦に挑む、いざ出陣の覚悟で踊ったのだそうだ。

この大公と大公妃はマラリアで死んだと公表されたものの、11時間差だけの2人の死直後から、毒殺されたとの噂が広まったそうだ。
事実はどうなのか?
今回の記事は、その2人についての調査結果の発表である。

ヴェネチアに行くと毎回、ビアンカ・カペッロの生家を、家正面に架かるポンテ・スポルト(斜めに架けられた橋)から眺める。
リアルト橋西岸を120メートル程直進すると四つ角に出る。
左に曲がり220メートル程道なりに直進すると、サンタポナール広場に着く。広場から右手の路地、ビアンカ・カペッロ通りを通り抜けると、橋に着く。
その橋の正面の館が、母親が亡くなり、父親は再婚し、結婚時に持たせなくてはならぬ持参金惜しさに、修道院に入れられる事になり、フィレンツェの銀行のヴェネチア支店で働いていた、フィレンツェ人ピエトロ(19歳)とフィレンツェへ駆け落ちした、ビアンカ・カペッロ、彼女の16歳までの住まい。
 
ヴェネチアからピエトロには、ヴェネチア貴族の娘をかどわかした者として、彼を殺した者には懸賞金が、そしてカペッロはヴェネチア貴族が持つ特権、財産総て剥奪され、尼僧院入りと決められた。

つづく
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初詣
2007 / 01 / 05 ( Fri )
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

元旦未明、高幡不動尊と近くのお寺に初詣、そして、3日、主人、娘夫婦と、9寺社お参りしました。

1番に、映画でお馴染み、葛飾柴又帝釈天、題経寺。
駅前で、寅さんの銅像が、トランクを持ち、とらやの方を振り返っています。
境内はものすごい人。うきうきと賑やか。
建物は、素晴らしい浮き彫りで、埋め尽くされています。

渡り廊下に”明治30年頃、"人車の図”5人ほどが乗った[帝釈行]と書かれた車両を、2人の人が押している浮き彫りがありました。
何処から押していたのでしょうか?

江戸川土手に上がると、風がつめた~い。
土手下川岸には20個位でしょうか、凧が高く上がっており、矢切の渡しがゆっくり行き来していました。
向こう岸は千葉県松戸市。

帰りに,高木屋さんで、お団子、コーヒー、お茶、おでん、ビール。
店内から店先を見るとなつかしいような。
ここは、映画で”とらや”として撮影されたお店。
山田監督、俳優さん達とおかみさん?との写真が店内に並んでいます。
斜め向かいに”とらや”さんがありますが、昔からの店名でしょうか?
川魚料理、川甚も川子も超満員、残念。えびすやで川魚定食。他。

押上まで電車。向島まで歩いて、隅田川東岸、元水戸徳川下屋敷跡の墨田公園の隣、2番目、牛嶋神社に参拝。
銅葺き屋根,木部は黒く、そこに輝く金飾り。
小さいけれど立派な神社です。
黒御影石の”撫牛”の頭、膝、腰を撫でて、「良くして下さい」とお願いしました。
本殿前左右に2メートル位の岩石の上に石彫の獅子。右に母獅子、左に父獅子。頭髪、尾のうねりの見事さ、力強い美しさにみとれました。

3番目に、牛嶋神社並びの、三囲(みめぐり)神社。
賑やかに踊りや、南京玉すだれ。浅草雑芸団の方々。
井戸を囲む三本足の鳥居があって、どこから拝むか思案しました。

4番目、2,3番と同じく見番通りの、弘福禅寺。
門に変わった鯱、本堂屋根に立派な鯱、大棟,鯱と鯱の真ん中に宝珠?の如くが立っており。初めて見ました。

5番目に見番通りの、長命寺。
「いざさらば、雪見にころぶ所まで」芭蕉の句碑があった。

寺脇の”桜餅”で知る人ぞ知る「山本や」で休憩。
大きな桜葉2枚で挟んだ桜餅が、木箱で出される。
葉ごと食べる人、中身だけ食べてる人、あり。
葉2枚で食べたら塩味強し、で1枚で試す、葉の香味でいい味だけど、葉が少し硬い。餅だけにしました。
土地により葉付き、葉取って、食べるようですね。
皆さんの所ではいかがですか?

6番目に、桜橋で隅田川を渡り、待乳山聖天(まつちやましょうでん)。
銅葺き屋根に朱塗りの木部に金装飾、神楽殿もある立派な社殿。
紋章は”二股の大根が2本からんだ”のと”巾着”
大根は体をきれいにし、良縁をもたらし、夫婦仲良くなるとのご利益。
巾着は、お金に縁、商売繁盛の神様。
1月7日にお参りすると、風呂吹き大根が振舞われるそうです。

浅草猿若町、江戸の芝居、三座があった通りを歩いて、
7番目、浅草寺敷地内の浅草神社に。
浅草寺の喧騒が聞える。

8番目、浅草寺。
浅草神社から雷門方へ下って、仲見世通りに出、行列に並ぶ。
そろそろ進んだが、本堂に上がると、出ようとする人、向かう人、ぎゅう詰めで押されて、叫び声あり。お賽銭がばらばら頭に当たる。
私もお賽銭、力いっぱい投げて、命からがら脱出。

銀鯱で飲。
仲見世裏のテント店の「笹一あり」、に引かれ入り、飲。
新宿、イル・バーカロに新年の挨拶に寄り、飲。

9番目、新宿、花園神社に参拝、
夜の11時過ぎ、さすがに参拝客、少なし。

今年、皆さんに良いこと、喜びがいっぱいある年でありますように。
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歳末の市場
2006 / 12 / 31 ( Sun )
30日、本日昼前、自転車で15分程走って、主人と卸売り市場に行って来ました。

入り口の店で、主人用に5本指の靴下、毛ふわふわの靴下を買う。
乾物屋で乾燥青豆購入。魚屋さん、肉屋さんが多い区域では、カニ、カニカニ、1000円!1000円!
○○鮭、3000円!3000円!1500円だっ!
にぎやかなこと。人人で通りは進み難いほど。年の瀬!

トラの剥製は苦手だけれど、その他多国籍家具、靴、置物、小物、他、何屋さんかは不明、雑多な物が、迷路のごとく置いてある店に入って、主人が行方不明になりました。
店の前で呼べど聞えるはずは無く…
魚屋さんの方からポロッと出て来ました。ホッ。

幅が5~7センチもある赤貝が出ていたので、小さいのはないか聴くと「”さるぼ”はないな」と返事あり。
郷里でお正月に欠かせない赤貝(幅2~3センチ位)に”さるぼ”と別名があるとは、知らなかった。
こちらでは売っていないので、今迄、名前を聞いたこと無かった。

赤貝の剥き身8個小皿に並べて、1000円、1000円!生きてるよ! エッ!ナヌ!と思ったら、
店のおじさん、棒でちょんちょんと剥き身をつつく。
動いた! 赤貝、家から掻き出されてるって分かってるのか?

「貝は貝の中で死んだのは食べちゃダメ!
剥き身にしたのは死んでも食べれるんだよ!」とおじさん。

貝の中で死んだのは、いつ死んだか、なんで死んだか、分からないから、食べるなって事でしょうか? 
それよりは、元気だと確認して剥いだ身は、新鮮なうちは安心ですよね。
買ってしまいました。

蒲鉾、数の子、など二人の自転車の前かごに納まる程度で買い物終了。
家に落ち着かぬお正月なので、ささやかな準備。

後1日で、新年! 2007年です!よいお年を!
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