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メディチ家、フランチェスコ一世は毒殺か?に決着
2007 / 01 / 07 ( Sun )
今日、ヴェネチアの友達から、イタリアの新聞「il Giornale」、2006年12月24日の記事の半面切り抜きが送ってきました。

メディチ家のミステリー、4世紀後の決着
(Il giallo dei Medici risolto dopo quattro secoli)と大見出し。

2004年8月に友達から「メディチ家の墓の調査がされる事になり、医者、病理学者ら専門家が組織された」と知らせを受けていた。

ヴェネチア貴族の生まれの、波乱の人生の中でメディチのトスカーナ大公フランチェスコ一世(1541~1587)に見初められ、ついには大公妃となった、ビアンカ・カペッロ。

ビアンカは日本人が初めて一緒に踊ったヨーロッパ人と聞いて、親しみを感じている。
1585年フランチェスコ大公は、天正の遣欧使節、4人の日本人少年を、トスカーナ大公国、ピサに招き、歓迎夜会の舞踏会では,伊東マンショが、ビアンカ・カペッロ大公妃と踊ったのだという。
マンショは、戦に挑む、いざ出陣の覚悟で踊ったのだそうだ。

この大公と大公妃はマラリアで死んだと公表されたものの、11時間差だけの2人の死直後から、毒殺されたとの噂が広まったそうだ。
事実はどうなのか?
今回の記事は、その2人についての調査結果の発表である。

ヴェネチアに行くと毎回、ビアンカ・カペッロの生家を、家正面に架かるポンテ・スポルト(斜めに架けられた橋)から眺める。
リアルト橋西岸を120メートル程直進すると四つ角に出る。
左に曲がり220メートル程道なりに直進すると、サンタポナール広場に着く。広場から右手の路地、ビアンカ・カペッロ通りを通り抜けると、橋に着く。
その橋の正面の館が、母親が亡くなり、父親は再婚し、結婚時に持たせなくてはならぬ持参金惜しさに、修道院に入れられる事になり、フィレンツェの銀行のヴェネチア支店で働いていた、フィレンツェ人ピエトロ(19歳)とフィレンツェへ駆け落ちした、ビアンカ・カペッロ、彼女の16歳までの住まい。
 
ヴェネチアからピエトロには、ヴェネチア貴族の娘をかどわかした者として、彼を殺した者には懸賞金が、そしてカペッロはヴェネチア貴族が持つ特権、財産総て剥奪され、尼僧院入りと決められた。

つづく
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